週刊店長情報 臼田先生の銅鐸の話 24 3 26
今回のセミナー後の懇親会では銅鐸の話を聞くことになっていました。「インフルエンザと闘うな」についてはダイジェスト版を作成しました。希望者はご連絡をこれを読めばだけでもインフルエンザ対策がアドバイスできます。書籍の取り扱いもします。「らっく生活瓦版」に掲載予定の原稿です。臼田先生は銅鐸の本を3冊出しています。インフルエンザの研究だけでなく銅鐸の研究も続けています。1冊の本も出せない僕にはうらやましい限りです。「誰かイラスト書いてくれる若い女性募集」としたところ名乗り出てくれた女性がいます。一回打ち合わせをしました。イラストが夏ぐらいまでに出来上がるかも知れません。後は表の表紙の絵をどうするか。プロの絵描きさんに頼むと言うのは「おじぇじぇ」の関係で無理です。誰か描いた絵とか使わせてくれる人を探したいと思います。靴と足と僕をモチーフにした水彩画とか油絵。金をかけたくない理由は安く売りたいからです。僕がたんまり儲ける気はないです。銅鐸のイメージは古代人が祭器として使っていたらしい。実際にどうやって使っていたのかは不明です。それが先生は「銅鐸民族がいた」というのです。懇親会場の庵に車で移動中に農文協の矢田さんが銅鐸の話をしかけました。古墳時代の話が出てきます。矢田さんと車を運転しているヨガの先生とかは僕にとって遠慮する必要のない人たちです。矢田さんは当方の小さなイベントに書籍の販売の為に用事を断ってきてくれました。銅鐸についてはみんな門外漢です。先生はインフルエンザの話より眼がランラン。不思議です。銅鐸の使用目的は「情報伝達器具」だと言のです。発見されている場所は山の中腹。置き去りにされたものが長年の間に上からの土砂で埋まってしまったのでしょう。中腹で仲間に銅鐸を鳴らして情報のやり取りをしていたと言うのが先生の説。沢山出てくる場所は銅鐸の製造工場。弥生時代人は縄文人を蹴散らして日本を支配したのです。と言っても縄文人は集落の規模も小さく武器もなく戦闘をしなかった人種 蹴散らすのは簡単だった筈です。縄文人の無防備に対して中国の春秋時代になんらかの理由で追い出された人たちは戦争経験者です。青銅器製造の技術を持っていました。武器は青銅製だったのでしょう。これが突然に消えたのが今までなぞとされています。先生は突然消えたのではなく「滅ぼされた」と言うのです。誰にと言えば「中国から渡ってきた天孫族(名前は中国の歴史書ではっきりしているそうです)」だと断定します。中国から渡ってきた天孫族は初め九州に上陸しました。上陸と言っても戦争を仕掛けて少しずつ弥生人を追い詰めて行ったのです。最後は九州を制圧。邪馬台国の中心が大宰府だったです。中国の歴史書を照らし合わせると邪馬台国が奈良とか出雲ではつじつまが合わないのです。戦争をした結果大量の捕虜がでます。捕虜を使って古墳のような物を作りました。捕虜を収容する為には島を利用したことも。そういえば昔女性だけの島があったというのを何かで聞いた事があります。変だなぁと思っていましたがこれだと辻褄が合います。男性だけの島もあった筈です。九州を制圧した後 東征が始まります。狙われたのは沢山弥生人が住んでいた奈良です。初めは正攻法で攻めたのですが惨敗。その為周到に準備して攻撃をしました。奈良盆地の裏側熊野から攻め入ったのです。今熊野古道と言われているのはそのなごりかも知れません。今の皇室が大和朝廷を成立させた闘いが数百年続いたのです。教科書では豪族の集合体として大和朝廷が出来たと教えていますがそうではなく九州から攻めたのです。当時の兵隊は片道切符。負ければ捕虜か打ち首なのです。勝てばバラ色です。単身赴任が当たり前。女性は現地調達というか捕虜の中から気にいった女性を選んで自分の物にしたのです。負けたのは弥生人。捕虜にされて古墳製造させられたのです。大黒様の袋を担いでいるのは恵比須顔ですが実際は貧弱な顔だったのです。弥生人の棟梁だったと。大宰府の近くに見つかった大黒様はかわいそうな貧弱な格好をしています。古事記は国譲りの話を載せていますがあまりに事実に近い為に廃刊。すぐに日本書紀を作ったのです。征服した人たちは自分たちの やった事を正しい事だと後世の人たちに説明したかったのです。奈良を中心に出来た大和朝廷は近畿を制圧。大宰府にあった本家の方は没落して行きます。それまでは頻繁に交流していたのです。それが本家を滅ぼすことに。最後は壬申の乱だと聞きました。それまでは大宰府を参拝していたのです。その後は伊勢神宮に代わりました。一番初めに伊勢に上陸したからでしょう。古墳は捕虜が作ったと先生。平地の土を掘り、掘った土を積み上げて出来たのが古墳。掘り取ったくぼみに住んでいたと言うのも先生の説。今は灌漑用の水が張り巡らされています。これは後になって農業の灌漑用水として利用されるようになった。堀の下には用水路があった事も判明しているとか。古墳は宮内庁管轄なので調べられないのが欠点。堀の中で生活していた人たちの事を土蜘蛛とか呼んでいたのです。外に出られないようにしていたのです。これが被差別部落の原型だと聞きました。言葉も違っていたから。しかも文字が無かった為後世に記録が残っていません。その時代には文字はあったのですが中国の新と付き合っていた弥生人。新はほどなくして滅ぼされてしまったのです。文字が伝わるのにはかなりの年月が必要だったのです。後の王朝と付き合ったのは九州の邪馬台国。邪馬台国が弥生人を攻撃出来たのは中国のお墨付きがあったからかも知れません。受験勉強だと覚えられない事もここまで書けます。勉強は何か興味とか動議づけがないと覚えられないのかも知れません。勉強の時は全く興味が無かったのに古墳の話がこんなに面白く感じたのは不思議です。ちょっと危険な部分もあります。今の皇室の成り立ちが赤裸々になるのです。しかもあまり良いイメージではないです。日本は神の国なんて思っている人たちにとっては聞きたくない話です。皇室が続いて来た事については敬意を払いますが実際にしたことは侵略だったのです。沖縄についても今はごねていますがこれも歴史があるのです。弥生人が負けたのは武器の差と情報の差でしょう。鉄器と青銅器 通信伝達手段が銅鐸と文字の違い。戦争は装備の差で大部分決まるのです。この時代も例外ではないです。どちらも生き延びるのに必死だったのです。歴史を見ると自分の国を他国に守ってもらうと言うのは?なのです。守ってあげると言っているのは自分たちに利益があるからなのです。決して「あなたたちの国の為」ではないのです。自分の店を守るのもあなた任せではダメなのです。国が守ってくれるとかいうことはないのです。